昭和40年02月16日  夜の御理解



 先ほど御祈念一寸前でした。久留米の石井喜代司さんが今朝の御祈念にお参りしてみえとったんですけれど別府行きがあっとったんです。それに帰っておられるんですね。そして言われることに15軒ほどお得意さんがおりました。お使いまわし頂いてから、振り返って見ますと、二言ぐらい、神様の心にかなわない事を言うたり、行うたりしてきておりますと、信心さして頂いて、こう云う事を言うて、こう云う事をしてと、まぁ、一日終わって気が付かせて頂いて、相済まん事だと云う話をしておりました。
 ・・・?と申したことでした。ね、もう商売人だからこれが、当り前となったら、おかげは頂かれませんです。これは人間じゃから、こんぐらいの事はと云うたらもう信心は向上しないです。15軒のお得意さんを廻らせて頂いて、二言だけ、これは神様のお心にかなわない。信心しとって、こう云う事を言うたり、したりしてはいけないと云う事を感じつくと云う事が信心。しかも、それを詑びると云う気になる事。そしてこの次には、こんな事であってはならないと云う意欲を燃やす事。ね、
  ここに私は信心が段々完璧と、完璧と申しますと、けどもいよいよおかげの受けられる受け物が所謂完全になってゆく訳なんです。信心が浮薄(ふはく)になってはいけません。軽々しゅうなってはいけません。ね、ちょっと自分に都合の良い事があると、もう有頂天のになって喜ぶ。自分にちょっと都合の悪い事になってくると、消沈(しょうちん)する。これではいけませんですね。これではおかげになりませんです。
  その事を、喜代司さんはこう言うとります、「有頂天になって喜ばねばならないような時には、喜びをとっておく」と云う。ね、意気消沈しなければならないような時に必ず、それが出てくる。そこに頂くのが平生心だと。まぁそう云う意味の事を、あの人流に言って、私は、「今日は、喜代司さんに良かこと聞いた」と、まぁ言ったことでした。素晴らしいでしょうが。ね、
 ちょっとおかげの事を見せてもらったり、聞かせてもらったりすると、もう有頂天になる。ね、羽根のような信心。ね、あの鴻毛の軽きと言う。例えば、あの鶏の羽根の軽さ、そう云う、この羽根のような軽々しさではです、おかげは受けられません。おかげを何か自分の都合の良い事があると有頂天になる。自分の思うような事になったら、それを広大なおかげと思う。ね、
 そう云う時にこそです、いわば喜代司さんじゃないけれども、喜びをとっておくと云う。そしてようと考えて見ると、喜ぶ事じゃない。反ってお気付けと云ったような場合もあるし、と云うて、意気消沈しなければならないような時にです、ね、今日のその事はですね、ここは信心の不可思議なところですよ。そう云う努力をしておりますとですね、確かに喜びをとっておけるもんだと云う事が分かるようにです。
 どのような、目の前が真っ暗になるような事があっても真っ暗にならんですむし、慌てなければならんような時でも慌てんですむし、意気消沈しなければならないような時でもひとつも意気消沈するどころではない、反って御神意を悟らしてもろうて、おかげを頂いて有難しと云う心が生まれてくるから有難いです。そう云う心が私平生心だとこう思うです。ね、そこには只今申しますような、常平生の心がけが必要なんです。
  今日も一日振り返らせて頂いた。15軒のお得意さんを廻らせて頂くうちに、2軒だけ、御神意にかなわない事を、言うたり思うたりしてきたと云う事。それを本当に、こんなこっちゃいかんと、この次は失敗してはならんと云うように、喜代司さんが反省しておられる。だから、それでいいのじゃないだろうかと、それが、信心ではないだろうかと私、話した事です。ね、
  浮薄になっちゃならん。軽々しくなっちゃならん。問題は信心の内容さえ出来れば、信心は、いわば、その重量感と云うかね、重々しい物になってくるです。内容がないから、もうちょっとおかげ頂いたら、もう跳び上がって喜ぶ。ちょっとの事があったら、もうそれこそ意気消沈してしもうて、いわば、死んだ者のようにしょげ込んでしまう。これではおかげの受けようがないです。
  私、思うのにですね、本当に神様がお働き下され、お蔭を下され「氏子、信心しておかげを受てくれよ」と云うようなおかげをです、ね、下さる前提に、それを、おかげを受けようとした時には受けようとしたままがっかりするのじゃない、神様ががっかりなさると云う事です。ですから、その事でお蔭を分からしてもろうて、ね、これは、例えば、私の事を考えてごらんなさい。
 ここが、いわば15年になりますが、15年が以前の事をあれだけ信心して、どうしてお蔭が受けられんだろうか、どうしてああ云う状態が続くだろうかと云う事であった。そこに御神意を悟らして頂いて、本気で信心さして頂く。その修行が、ある意味合いに於て成就した時です。なら、私が椛目に帰らせて頂いたら、途端だったでしょうが、もう、あれよあれよと云う間に、やれ借金払いが出来ました。あれよあれよと云う間に、お広前が広うなって参りました。だったでしょうが。ね、
  問題は、だからそこを分からして頂かにゃ、それにゃ、まず何と云うてもです、私共の心の中に平生心を頂く事です。ま、その平生心はどう云うふうにして鍜われるかと申しますとです、只今申しますように、ちょっと自分の都合の良か時には有難うなる。嬉しゅうなる。有難うなるちゅうよりゃ、嬉しゅうなるち。ね、そしてその反対になってくると、意気消沈すると。
  これでは、ね、所謂、内容が、いよいよ内容のない証拠ですから、内容を頂かして頂く為にです、おかげを頂いて有難しと云うその心をですね、その喜びを浮薄に出さずにです、それをじっと、こう自分の心にたたえて、むしろ神様からなんかお気付け頂きよると云う慎重さでです、おかげを頂く時にです、その喜びをとってあるのが、次に悲しまねばならん時に、その裏が出てくるもんですから、平生心。
 そこんにき信心の不可思議さがあるようですね。そこのところを一つ、皆さん、どうでも体得させてもらわなければならない。為には、喜代司さんじゃないけれども、日々をです、ね、あの人を私、只あの以前から、あの人の信心生活を見ておりますとですね、もう本当に言わんでもいいですもんね。教えを頂かんでもです。毎日参って来んでもです。実際その信心生活、完全なって事じゃなくてもです。
 本当に神様に喜んで頂くような思い方をもって、商売をさして頂いております。かたや商売でも、それがだんだん高度なものになってゆく時にです、おかげの受けられないはずはないと云う事を感じますですね。実は皆さん、例えば、私、今晩頂きますのにですね、いわゆる、浮薄な信心、軽い信心は内容がないからだということです。只今申しますような内容がないからです。
  そしてこれに苦労と。あのむくろと云うのがございますよね、昔、正月に女の子が羽根を突きます。その羽根にね、羽根は軽い物、けれども、下のむくろに黒い物が付いておる。黒い、これが苦労である。修行である。修行がとものうてからと、こう、つく事が出来るでしょうが。しかもなら、誰でもつけるか、やっぱ稽古しなければつくけませんけれどもですね、そこに本当のお蔭が受けられるのですね。
   どうぞおかげ頂かにゃいけません。